フェルメール オランダ人画家の美学

フェルメールの絵はとてもシンプルです。フェルメールが描く人物はたいてい一人か二人で、じっとたたずんでいる様子が描かれているものが多いです。色彩も赤青黄色の三原色が基本で過剰な色使いを嫌っていたように感じられます。ただ室内にうまく光を満たす事で生きた空間と深い味わいのある作品となっておりそこに何かの意図と強い自己主張を感じ取る事ができます。フェルメールはこの”光”を満たす事で自分の絵の見せ所を表現したのではないでしょうか?又フェルメールは透視法を無視した大胆さも持ち合わせています。《牛乳を注ぐ女》がそうですね。フェルメールは独特な技法で静寂な室内を写実的でどこか不思議な非現実的感を描き出してしまう驚くべき才能の画家と思います。フェルメールは室内風俗画で主に女性を描いた作品が多いのですが、2つだけ風景画を描いております。《小路》と《デルフト眺望》です。1654年の火薬庫の大爆発で町は打撃を受けました。古き良きデルフトの面影が失われた喪失感でこの2つの絵を描いたのだと思います。

スポンサード リンク

スポンサード リンク

フェルメールの生い立ち

ヨハネス・フェルメールは1632年10月31日オランダの小さな水の街デフルトに誕生しそこで生涯絵を描き続けました。デフルトはアムステルダムから列車で約50分の所に有ります。デフルトはオランダ語で壕を掘る(デルヴェン)から派生し名前の通りにいたる所に運河が走っています。フェルメールが生きた17世紀はビールや毛織物の生産そしてデフルト焼も生産し海外に輸出する商業都市として栄えました。今でも街全体が古いレンガ造りで覆われていて情緒いっぱいの街です。フェルメールの描いた故郷の風景画が2つ有りますが、残念な事にフェルメールが生きたこの街には一つの作品も置いてありません。フェルメールの父親は織物業と宿屋を経営しておりフェルメールの生まれる前の年に画商も始めましたので少年時代のフェルメールは絵画に接する機会も多く比較的裕福な生まれだったと思われます。1653年に結婚し14人の子供に恵まれました。当時のヨーロッパでは宗教画、神話画、歴史画といった”物語画”を描く事が主流でしたので、フェルメールも1654年に唯一の物語画《マルタとマリアの家のキリスト》の製作を開始しました。

フェルメールの選択

フェルメールはかなり早い時期に風俗画へと転向しました。イギリスとの戦争勃発で経済不況となり、先行きの暗い物語画より単価が低くても人気が高まってきている風俗画の方が将来性が有ると判断したフェルメールの選択は正しかったようです。1656年からは女性を描く室内風俗画というフェルメールの世界が始まります。初期のフェルメールの作品は厚塗りでしたが1658年位からは厚塗りの中にも質感と光をうまく表現した完成度の高い作品となっていきます。何故突然凄い絵が描けるようになったのか?短期間でフェルメールの絵は進歩しております。その後2つの風景画を描き1660年代にフェルメールは美しき到達点に行き着きました。しかし晩年を迎えた1670年代は明らかに翳りの兆しが現れます。1675年12月フェルメールはわずか43歳で没。43年の生涯の内画家として活動したのは20年程そして現在残されているフェルメールの作品は30数点です。没後のフェルメールは忘れ去られた存在でしたが、200年後に再発見したのは美術批評家のトレ=ビュルガーと言われています。今現在も行方不明の《合奏》見つかって欲しいと願っています。

スポンサード リンク


Copyright © 2008 フェルメール謎のオランダ人画家

当サイトは、第三者配信による広告サービスを利用しています。このような広告配信事業者は、ユーザーの興味に応じた商品やサービスの広告を表示するため、個人を特定する情報を除いた当サイトや他サイトへのアクセスに関する情報のみを使用することがあります。このプロセスの詳細やこのような情報が広告配信事業者に使用されないようにする方法については、ここをクリックしてください。